2016年08月26日

夏の終わりに

8月26日(金)快晴 旧暦文月二十四日 正午の月齢23.3

まだまだ暑い日が続いてますが、
光と影のコントラストは、かなり強くなって参りました。

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2016年08月23日

内閣法制局も堕ちたもの

8月23日(火)くもり 旧暦文月二十一日 正午の月齢20.3

  「生前退位に憲法改正は必要ない」南野森(九州大学法学部教授) 
    2016年8月23日 11時20分配信 ヤフージャパンニュース 

内閣法制局などが、将来にわたって天皇の生前退位を可能にするためには、「憲法改正が必要」と指摘している、とのこと。
一方、生前退位を今の天皇陛下にだけに限定するのであれば、特例法の制定で対応が可能だと説明しているとのこと。
特例なら可能で、永続的には「憲法改正が必要」な理由が、全然説明されてないじゃん。ご都合主義もいいとこだね。

天皇陛下の地位は憲法に拠り「日本国民の総意に基づく」が、別に明仁天皇即位の際に国民投票をやったわけじゃない。国の法令である皇室典範の定めに拠って、即位されたまでのこと。これが即ち、「日本国民の総意に基づく」ということの実相。
ならば、国民の選挙により構成された国会が正当な手続きで皇室典範を改正し、新たに退位の道すじを規定すれば十分。それで「天皇の地位は日本国民の総意に基づく」という憲法の規定と、何ら矛盾は致しません。

もとより天皇は、政治に関する権能を有しない。よって自らの退位を自ら決めることは出来ません。そこは当事者のお気持ちを尊重しつつ、国政の正しい手続きに乗っ取って、我々国民の側が決めるべき事柄です。

そして前にも書いたが、「右」も「左」も、いいかげん天皇陛下の政治利用は慎んでもらいたい。憲法改正のダシにしようとか、反政府のヒーローに仕立て上げようとか、どちらもダメ。
しかしこの問題に関しては、子供だましの屁理屈で天皇退位を改憲論に結びつけようとする政府側の浅ましさがの方が、より際立ってるなと思う。

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2016年08月09日

天皇陛下、生前退位の「お気持ち」を表明

8月9日(火)晴れ 旧暦文月七日 正午の月齢6.3

8日に放送された天皇陛下の「お言葉」を謹聴して、思うこと。
まず明仁天皇は、「天皇」の存在意義を、たいへん積極的・肯定的に把えておられるのだと思いました。

そもそも政治というものは本来的に、国民の幸福を目指すものですが、
その手段、方法という点で甲党・乙党に分かれ、甲党より選ばれた総理大臣は、常に乙党側の非難攻撃にさらされる事になります。
つまり日本国の代表たる総理大臣は、日本国民統合の象徴とはなりにくいという宿命を、甘受せざるを得ないのです。

それに対し天皇は、憲法の定めにより政治に関する権能を有しない。
平和と安寧を求めるにしても、具体的な方策を練り、断行するわけではありません。
ただ祈るだけ。ただ訪れ、人々にお言葉をかけるだけ。
しかし僕ら日本国民、つうか人間というものは、甲論・乙論という意見、方法論の違いを超えて、
平和と安寧と幸福を求めるという根本においては、意見は一致していると考えます。
平和のために祈り、犠牲者に哀悼を捧げ、被災者に慰撫の言葉をかけ続けるものの、具体的な方策は提示しない天皇だからこそ、
甲党の代表たる総理大臣にはなし得ない、甲乙を超えた国民統合の象徴としての役割を、果たすことが出来るのだろうと思います。

日本国憲法に規定されている「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」とはいかなるあり方なのかという点につき、
明仁天皇ほど深く思いを致し、つきつめて考えて来られた方はいないと思います。
そしてそれは明仁天皇が、自らの人生の意義をどのように形作っていくかという、真摯な命題を追究することによって、支えられて来たに違いないと信じております。

日本国憲法の規定のもと、天皇には、天皇にしか為し得ない大事な役割がある。
そしてそれは、大変に意義深いものと考えられたからこそ、
明仁天皇は、身体が健全でなければ天皇の務めを果たすことが出来ない、
少なくとも全国津々浦々に足を運び、人々と膝を交えて直に語るくらいの力を残していなければ、その職務を全うしているとは言えないと、お考えになったものと思います。

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そして思うのですが、明仁天皇は、
自らが天皇「である」というよりも、今天皇を「やっている」という感覚に軸足を置いて、職務を遂行されているように感じられます。

歴史学で明治国家をの思想を表す概念の一つに、「家族国家観」というものがあります。それは、天皇皇后は民の父母、民は天皇の赤子(せきし)、日本臣民は一大家族のように睦み合え、という考え方。一世一元の制がこの家族国家観と密接不可分の制度であることは、容易に想像がつきますね。

昭和天皇末期のことを、思い出してみて下さい。病に倒れ、闘病生活に入り、生涯を閉じるその瞬間まで、昭和天皇は天皇であり続けました。
その結果の長期にわたる自粛ムード、そのことによる国民生活への影響、社会の停滞。そんなことがまたあってはならないと、明仁天皇は明確に述べられました。
これ聞いて、ハッとなりましたね。僕らみな体験して知っていたはずのことなのに、天皇自らが提起しなければ、ほとんど誰も改革を唱えなかったとは。僕ら1億も頭脳を並べといて、揃いも揃ってボンクラであったと、悟らないわけには参りません。

もし本当に天皇が民の父なら、病に倒れてもオヤジはオヤジ。オヤジが危篤に陥れば家族が自粛ムードに包まれるのも、致し方ないところでしょう。病気になったので俺はもうオヤジをやめる〜、とは行きませんものね。
でも明仁天皇は、子にとって父が父「である」ように、国民にとっての天皇「である」わけじゃない。
あくまで職務を全うする気力・体力があり、全身全霊で務められる間だけ、天皇を「やっている」。
国民生活を損ない、国民に迷惑をかけてまで、天皇を「やっている」わけにはいかない、と述べている。
つまり明仁天皇は、明治国家的な「家族国家観」を否定しているという点が、この「お言葉」の大事なキモの一つだと、僕は考える次第です。

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そんなわけで僕は明仁天皇を、現代天皇制確立の功労者と考えております。
子供の頃、象徴天皇制の意味って全く理解不能でした。単なるお飾り、ハンコ押すマシーン、税金の無駄遣い、その位にしか考えられなかったんです。
全くの想像ですが、明仁天皇だって、同じ思いに捕らわれことがあったはず。
でもきっと、そこで思考停止して日々惰性に流されること無く、「象徴」とは?「国民生活の象徴」とは?と、常に自問し、自らの人生の意味を、模索し続けて来られたのだと思います。
そんな明仁天皇の姿に触発されて、僕もいろいろ思索を深めることが出来ました。
日本国家の代表が総理大臣一人でなく、もう一人天皇がいることで、僕ら日本国民は大きな恩恵を受けている。今ではそう考えるようになりました。

が、しかしです。

そんな「天皇」の責務を、特定の家に生まれた人々にのみ負わす天皇制は、
僕はやっぱり、間違っていると思います。
せっかくこの世に生まれて、「お前は天皇になる他ないんだ!」なんて決めつけられたら、
僕なら絶対、隙を見て国外に高飛びしちゃいますね。
そしてもっと可哀想なのが「お后」じゃないでしょうか。
一体誰がパンダみたいにガラスケースの中に入り、死ぬまで人目に晒されろなんて言われ、納得する?
自分の意志で「それでいい」というならいいけれど、
他にいい候補者がいないってんで、周囲の無言の圧力で一生を決められ、
母親に「これも娘の運命だと思って受け入れます…」などという言葉を吐かせるような事態が、あっていい筈など絶対あり得ません。
天皇制は、日本に残された最後の身分制です。
選択の余地なく、その家に生まれた運命を受け入れることを余儀なくされる制度など、廃絶すべきです。
世襲天皇制に代わって、選挙で選ぶ任期制(再選を妨げず)の象徴大統領制なんてどうでしょう?
無論天皇家の方々が立候補するのも、彼(彼女)に投票するのも自由。
でも一方、立候補しない自由も選択できます。
天皇家は出雲国造家のように、国の制度ではなく自分たちの意志で、「家」を存続するかどうかを、選択できるようになるのです。
天皇家という伝統と現代民主政体がブリッジされるか否かは、あくまでもその都度、当事者の自由意志により、選択されて行くべきです。

でも…
僕ら日本人が自分たちの意志で、憲法を変え、天皇制を廃止するなど、夢のまた夢でしょう。
おそらく天皇家は数代後になって、皇統男子に恵まれず、自然消滅することになるんじゃないかな。
古墳時代頃、稲作文明の形成と共に発祥した天皇家は、
日本が農耕中心の社会を脱したことで、終焉の時期を迎えるような気がしています。



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2016年08月03日

アニメ映画『風のように』

8月3日(水)くもり 旧暦文月朔日 正午の月齢0.3

16時から、下北沢のミニ映画館「トリウッド」で、
アニメ映画『風のように』、観て参りました。

パンフ表紙
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主題歌CD「恋風」
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山奥の小さな村に、おばあさんと2人で暮らす少女。そこにある日、「風のように」やって来た少年。
恩返しにとツルハシをふるい、誰も手を出せなかった山あいの土地を耕し、畑に変えて行きます。やがてその畑は… そんなお話。
美しく懐かしい山里の風景に、冒頭からもうホロリの連続。そして意地っ張りで、シャイなため口に出しては言えないけれど、本当は優しくて力持ち。そんな古き佳き時代の日本人像が、(若干の美化・理想化が含まれてるかも知れませんが)、描かれていると思います。
アニメの絵柄も作風も、ここ数十年で大きく変わって来ましたが、この作品は僕が10代、20代の頃のまま。そんな点からも、ホッコリ安心して観ていることが出来ました。
この『風のように』、「トリウッド」では8/5まで。16:00からの上映です。近くで時間のある方は是非!

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なおこの作品はクラウドファンディングの方法で、世に出ることが出来ました。
クラウドファンディングとは何か。映画や音楽などの作品を制作して世に出したい、でも資金がないという人が、Netを通じて多くの人に企画を提示し、資金を募るという方法です。
僕はこの手法に、大きな可能性を感じています。

日本が金満だった高度成長時代と、それに次ぐ「Japan as no.1!」などとヨイショされていた時代、日本は確かに豊かだったかも知れませんが、この「豊かさ」って本物?って疑問を、常々感じずにはおれませんでした。
沢山のモノが世の中に溢れ返っておりましたが、この製品作りを支える発想が、どこか画一的で一本調子なような気がして… 1億以上の頭脳を擁する、豊富なマンパワーの国な筈なのに、それだけのパワーを本当に発揮出来てるの?って疑問に、常につきまとわれておりました。

一番顕著だったのは音楽分野だと思います。結局一握りの限られた人数のイベンター達の企画のみに支配され、しかもその大多数はビジネス感覚、つまりいかにして収益を増やすかというニーズにのみ動かされる人々ですから、僕らの本当に聴きたい音楽がなかなか見つからないというのも、やむなき事だったのかも知れません。

しかしながら、「なかなか見つからない」とはいえ、そういう音楽が世に現れて来なかったのかと言うと、そうでもありません。そこには聴く側の怠慢という側面もあります。「売れてる」とか「メジャー」ということに惑わされず、本当にいいものを求め虚心に路上やライブハウスを探し回れば、いい作品はいくらでも、芽生えて来てるのを見つけることが出来るわけです。(まぁそれは大都会限定じゃん?って突っ込まれそうですけどね。)

そこでクラウドファンディング。商業主義なメジャーのプロデューサーが採り上げてくれるのを待たなくたって、僕らが「いい!」と思う作品の企画にどんどんお金を出して、制作を支援することが出来る時代になりました!
メジャーな音楽産業のリリースした3000円のCDを、「こんなもんか、まぁいいか」と言って購うのと、自分が本当に聴きたいアーティストのCD制作企画に10000円出資して支援するのと、どっちが安い?そりゃあ後者でしょう!そんな風潮の支配する真に豊かな世の中に、変わって行って欲しいものです。


posted by 弘松勘八(ひろまつかんぱち) at 19:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする